車中泊旅

天下無双の難所親不知 新潟・東北車中泊旅 1日目①

2022年5月、俺は1年振りに遍路から解放された。

仕事を終え、車に飛び乗った2人と2匹は宮崎県都城市から高速道路に乗り、ひたすら北を目指す。

さくッと350キロ走り九州を抜け山口県を過ぎ、広島に入ると「今治」が俺たちを呼ぶ。

 

今治「こっちだよ~。いつも通りこっちだよ~。歩こうよ~。」

 

俺「ふざけるな!この前歩いたばかりじゃないか!!」

 

俺はしつこく誘ってくる今治への看板と目を合わせることなく、尾道ジャンクションを東に突き抜け岡山県を目指した。

この辺りにもなると四国ナンバーの車もよく見かける。

それを見るたびに横に座っている奴が笑いながら「ほら」と言う。

 

「うるさい!うるさいんだ!今回俺は意地でも四国に行かない決めているんだ!」

 

「じゃあ歩くか?」と聞けば「何も準備していないから無理」と言いやがる!

これを書いている今も最近の旅を思い出してみると、

2021年8月、四国別格一周車遍路。

2021年9月、久万高原1泊2日遍路。

2021年11月、宿毛から宇和島遍路。

2022年2月、久万高原から今治遍路。

2022年4月、今治から西条遍路。

 

はい、しこく。

 

世界がコロナに慣れてきて、遍路を再開したと思えば、ALL四国。

 

「南下してたまるか!」と本州を東に走ると今度は坂出が俺達を呼ぶ!

岡山県倉敷ジャンクションを南下すればそこは香川県坂出市。

ご丁寧に”坂出”の看板は今治とは違って”四国”と書いた看板を別に用意してやがる。

 

その日、俺は約700キロを必死に走り、岡山県吉備サービスエリアまで辿り着いた。

ここまで来たら四国はもう大丈夫。

今回のルートに淡路島方面は含んでいない。

今日は久し振りの車中泊だ、トラックの騒音地獄に囲まれて眠るとしよう。

そう思い、隣の車をみるとそれは「愛媛」だった。

 

翌朝、意外にも吉備サービスエリアはトラックの量にしてはグッスリと眠れるいい環境だった。

今回はいつもと違う俺の車で初めてとなる車中泊旅だ。

今までのビーニャ号とは違って少し広めで、ベッドのセッティングも必要ないから荷物もかなり減った。

この旅に備えてルーフボックスを取り付けられるためのルーフキャリアも揃え、換気のパーツも簡易的に作った。

「さぁ!四国ではない旅に行こう!希望の旅だ!」

久し振りに心踊る俺は運転席に座り、更に東へ向かった。

 

その矢先…、目に入ったのは、

見覚えのある白装束と駐車場に立てられた杖…。

まさかと思い近づくと、まさに”それ”

つい俺は「おい、お前ら!ここは四国じゃねえんだぞ!」と車内で叫び、足早に吉備サービスエリアを立ち去った。

 

走り始めるとまたが「ぷっ」っと笑う。

香川…、徳島…、高知…、愛媛ナンバー…、何故君たちは俺の周りを走るんだ。

 

お山さん「四国を通り過ぎるから、監視されてる」

 

そう隣が言うほど、俺の身の回りには四国が溢れている、確かにそれは否定できない事実なのである。

 

「ぷっ…」

 

Sasayama!!

俺が四国で1番愛する霊場の名がそこにあった。

しかし、今回ばかりは無かったことにしてもらうぜ。

 

その後、俺達はいつもと違う自動車道を意識して選び、つかの間のいつもと違う景色を堪能しながら1時間交代で運転を続け、550キロ先の富山県魚津インターを降り、東北旅のスタートを切ったのだった。

既にここまでで約1200キロ。

お気づきの方もいらっしゃると思うけど、とても不吉な数字であるが、高速道路料金は約17,000円で、給油回数は4回、意識してエネオスを選んだためであった。

東北旅のはずなのに何故富山県魚津市で下りたのかと言えば、今回の旅に新潟県を含んでいることや、景色や料金含め高速道路やバイパスが好きでは無いこと、

一番は新潟県西部の糸魚川市にある”親不知”に行きたかったからである。

実はこの地は、2015年に一度電車で通りかかった思い出の地で、是非とも一度訪れてみたかった場所だったのです。

その時の日記にもあるように、この時俺は断酒こそ3年目に入っておりましたが、未だに親を全く許せておらず、更に引きこもりが再発してしまっていたのです。

「これでは何も変わっていない!」と思い付いてすぐに飛び乗った電車で日本を反時計に回り、その後、初めての歩き遍路へと向かうことになったのです。

その時に電車の窓から見た「親不知」の文字が物凄く苦しくて、とても印象に残っていた地名でした。

当時はまだまだ”親”と言う言葉に反発心を感じていたのです。

あれから7年経ち、いつの間にか解放された”恨み”は、今は感謝へと変わり、こうして旅が出来るまで回復させて貰っております。

自分の人生を振り返れば確かに親にとても傷付けられた。

しかし、その俺を回復させてくれたのも親。

親父は酒とギャンブルと買い物にお金を使い荒らしてしまったけど、母がコツコツ溜めたお金で俺は旅を経験させてもらい、回復のきっかけになり、心の中に沢山の財産を残してもらいました。

さて、ずっと来たかった地ですので観光しましょう。

どうやらこの地は、昔交通の難所だったようですね。

松尾芭蕉とかも来たみたいですが、これは誰かが詠んだ句なのでしょうか?

他人事ではなく何故、物書きには旅を好む人が多いのか。

そう思い、書くのが好きな自分に照らし合わせてみると”居場所が無い”と言う答えがいつも落ちてきます。

物書きには不幸な亡くなり方をしている方も多くいますし、そんな生い立ちで独特の世界観を持つ方が多いですね。

幼い頃から安心出来る場を知らずに生きてきて、5年ほど前にやっとそんな場所に辿り着いた気がします。

その途端、年相応に顔も、体力も老け出し、やはり心の傷はその時に、その人を留めてしまうのだと体感しました。

ずっと若いままでよかったのん…。

結構な長い区間に断崖絶壁が続きますが、現地に立つとそれが体感出来ます。

この後、新潟方面へ車で走ることになりますが、向こうに見えるように車道もまた物凄い難所でした。

「ぷっ…」と声のした方向に向かうと「南無遍照金剛」の文字に反応しているがいる。

俺もついつい「何でここまで来てこの文字や…」と口から出てしまう。

親不知を小さく模型にしたものは分かりやすく、昔の”命がけ”を伝えてくれた。

こんな断崖絶壁の波打ち際を歩き、場所によっては波が引くタイミングを待って越えたとか。

「南無遍照金剛」と岩肌に彫られた10番から先は「大丈夫」と、果たしてそこまではどんな過酷な道だったのでしょうね。

叶うならいつか海から「南無遍照金剛」を眺めてみたいです。(石碑マニアですし)

如砥如矢(とのごとく やのごとし)

ここは、親不知でも最も通行が困難な「天下無双の難所」と呼ばれた断崖絶壁で、かつての旅人たちは、波打ち際を命がけで通行していました。絶壁を切り抜いたこの道は、明治16年(1883)年に完成し、工事に尽力した青海の富岳磯平は、砥石のように滑らかで矢のようにまっすぐであると言う意味の「如砥如矢」と岩壁に刻んで喜びを表したと言われています。

 

今、俺達が歩いて来た遊歩道は断崖絶壁のかなり上の方で、この看板に書かれている道がこの道に当たります。

それ以前は本当に命がけだったのでしょう。

岩壁には「如砥如矢」以外にもよく見ると数ヶ所文字が刻まれております。

石碑や石仏が大好きなので、その達筆に只々見惚れます。

“如砥如矢”を見て引き返そうとも思いましたが、せっかく遠方まで来たので一周ぐるっと観光して見ようと言うことになり先に進みました。

ところがどっこい!崖の下を走るトンネルまでは結構下るようで、時間もかなりかかるようです。

旅は始まったばかりですし、時間に余裕も無く、今日寝る場所の目星も付いていません。

御互いにどうしようかと顔を見合わせます。

勿論、俺の頭の中は「結局ここまで来ても山を歩かされるのか…」となっています。

いや、やはり行きましょう。

山を歩くのは得意分野だし、何より下を走る廃トンネルは廃墟などに興味を示すお山さんならきっと気に入ることになるでしょう。

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