岩屋寺を目指して菅生を歩く 区切り遍路29日目④からの続きです。
いよいよ八丁坂までの遍路道が始まるのかと日の出橋手前を左に曲がって歩くも、暫くはアスファルトの狭い道が続いておりました。
曲がってから2キロ程はこ
んな平和な道が続きました。
そんな道をトボトボと歩いていると、
道路脇に突然何かが現れた!!!!!
ヤバい!ヤバい!ヤバい!
そうそう、ずっと前(確か5年前)に、今回歩くことになったこの槙の谷ルートを調べていた時にどこかのサイトで見かけた遍路石だ!!!
この石の存在をど忘れしていた!
遍路石マニアとしては大興奮です!
昭和18年制とまだ比較的新しい時代の物だけど、このデザイン、そして横にはお地蔵さん付きで、今まで見た遍路石の中でもトップクラスにお気に入りになりそうな遍路石です。
この遍路石がせめて明治、大正製だったら間違いなく1番のお気に入りになったでしょうね。
お地蔵さんはあるあるで首から上は別の物になっておりましたが…。
遍路石を過ぎた辺りからポツポツと民家が出てきました。
しかし、その殆んどは人気のないただの箱。
1軒は住んでいそうな家もあったけど実際はどうなのでしょう?
日の出橋を曲がってすぐに1台の車とすれ違ったので、住んでる方がいらっしゃるのかもしれません。
山の谷間にある槙の谷集落なので水を引いているのでしょう、綺麗な水が流れておりました。
水を見たら喜んで飛び込む犬はやっぱり飛び込みましたが、水マニアは流石に飲む様子はありませんでしたね。
水に興味の無いだるだるは、いつも通りシワシワしてました。
集落を少し登ると見るからに廃校があります。
その坂の下にも槙谷公会堂と言われる古い建物があります。
そして、その建物の前には立派な遍路石がありました!
学校の生徒が作ったのかな?とか思って調べると、
嘉永四〇いわやへ二十二丁 左へんろみち 七月吉日(1851年)と彫られているようです。
とても古い遍路石ですね。
ちっちゃい手指しが可愛いけど、それ以外は読むのがやっとなレベル。
ここまで見落とした遍路石3ヶ所を調べてみても、どれも大きな自然石で作られた物らしいです。
一般的な四角形の石柱である遍路石とは違うレアな物ですね。
ますますこの道が古来の遍路道であることを知らせてくれます。
愛媛県の遍路石の資料によると、嘉永は1848~1854年と短い期間だけど、その時期に建てられた遍路石が愛媛県では一番多いそうです。
跡で知ったのは、この槙の谷集落は廃校とか廃村マニアとかに有名みたいですね。
まだ廃村じゃないですけどね。
集落の上の方でキーポイントとしていた素鵞神社に辿り着きました。
古い神社です。
下からですが帽子を取り挨拶をしました。
お願いばかりで申し訳ありませんが、これから始まる険しい遍路道の道中安全を祈り、気を引き締めました。
そして素鵞神社を少し登るといよいよアスファルト道から土の遍路道へと変わるのでした。
以下、単なるボヤキです。
遍路には現代人が手に入れた「コロナだから」という言い訳も、自分が障がい者である言い訳も無い。
シンプルに右、左、右、左と、登り坂も下り坂も足を前に出し続けるだけ。
コロナ以前から続けている、
「仕事だから」
「時間が無いから」
「お金がないから」と、
更に便利に正当化も込めて「コロナだから」に変換するのか、それとも「コロナだから」どう工夫してやるのか。
今出来ないことの殆んどは、未来はもっと出来なくなっている。
年取って貯金額は増えても身体が持たない。
時間があっても体力も気力も、自信も無い。
未来の何処にそれが出来る保証があって、皆そんなに老後を信じているんだ?
俺達も必ずいつかは歳を取ってそうなるし、
俺達の4分の1も生きることが出来ないこの子達も、数年後にはこうして歩くことが出来なくなっている。
それは俺達の区切り遍路の休止を意味するし、それが俺達の読経している般若心経の教え。
形あるものは必ず変わる。
だから俺は問いかける。
「いつやるの?」
「今でしょ?」
「50、80喜んで」