現在、愛媛県西予市から八幡浜市へ越える“笠置峠”の記録を書いている途中だが、ひとつ頭の中を駆け巡って収まらないことがあるので書き出してみようと思う。
それは大正時代に高群逸枝によって書かれた娘巡礼記に出てくる“大窪越え”についてであり、九州から愛媛県八幡浜市へ船で上陸した彼女は逆打ちするために“大窪越え”をして43番札所へ向かったという。
その大窪越えだが、俺の知る限り遍路道としての大窪越えがまだ特定されていないと思うので俺なりに推測してみようと思っているのだ。
今日のタイトルを“机上の空論”とした訳だが、先日初めて笠置峠と昼夜峠を歩いてみてから見えてきたこともあるので、歩いたことのない“大窪越え”について“ほざく”意味で付けた。
四国在住では無い俺は土地勘に疎く、今回笠置峠や夜昼峠を歩いてみるまでは全く違う場所を“そこ”だと想像していたのだ。
だから“机上の空論”だった頃は笠置峠を大窪越えと疑っていた時期もあるし、先日書いた記録にもそんな表現を使ってしまっていたのでそこは修正して、改めて大窪越えについて考えてみることにした。
今回はこの範囲の話である。
赤丸の部分の話であり、多くの人には無縁となっている話である。
西予市にある43番札所を八幡浜市から逆打ちで目指そうとした上で“大窪越え”の場所を推測してみると、まず候補の筆頭として真っ先に上がるのは“鳥越峠越え”になるだろう。
実際にそう考察した記事が幾つもあり、俺もその可能性を信じていた。
一応念のため注意して欲しいのは、現在の遍路が西予市から大洲市へ向かう主要の遍路道は“鳥坂峠”であり、今回話題としてあがる“鳥越峠”とは名前が似ているが向かう先も別の物だ。
実際に鳥越峠ルートは“八幡浜新道”として遍路石でも案内されているため、ここが高群逸枝の手記に出てくる大窪越えであることを疑う方が難しくもある。
八幡浜新道は明治時代に作られたと記憶しているが、高群逸枝が歩いたのは大正に入ってからのことで、その道が出来るまでは笠置峠を越えて八幡浜へ向かっていたようだ。
確かにネットで『八幡浜 大窪』と調べてみたところ、西予市宇和町河内という地名が検索され、そこは昭和29年の地図には“大窪”と記載されているようだ。
それとは別に“大窪山”という山も検索によりその付近に出てきた。
八幡浜市議会の会議録にも笠置峠とは別に“大窪越え”の存在を知らせる発言と、その中に“若山”と“伊延”という地名も出てきた。
因みにその発言では「何と何と、若山から伊延の峠越えの大窪越えだと、こういうふうに載っておりました」と発言されていますが、そういうふうには載っていなかったと思ので先入観が入っている感じもします。
しかし、ここまで出てきた地名を検索してみると、確かに“鳥越峠”のやや北側から鳥越峠の通る県道262号の終点、西予市宇和町へと向かっている。
もしかすると県道262号のベースとなる山道に大窪越えが通っていたのだろうか?とも思える。
しかし、である。
俺は違和感を感じてしまうのである。
仮に“若山”という地名を目標に大窪越えを目指したとすれば、何故わざわざ笠置峠を避け難路である大窪越えを選んだのだろう?
仮に大窪越えが明治時代に作られた八幡浜新道(鳥越峠ルート)だとすれば“新道”を選ぶことは自然なことかもしれないが、高群逸枝はこう手記に残している。
私たちは逆をすることにした。先ずは四十三番の明石山に出なければならぬ。それだのに道を非常にとり違えてまるで反対の方へ出てしまった。仕方がないので大窪越えという難路を辿ることにする。
“逆”とは逆打ち(四国を反時計回り)のことだが、
“まるで反対の方へ出てしまった”
“仕方がないので大窪越えという難路”
この2つの表現からすると、笠置峠を目指していたとして“若山”という土地はまるで反対の方という表現にはならないし、道を間違えたとしてもわざわざ大窪越えに切り換える必要などなく、笠置峠への修正は利くのだ。
“若山”という地名は現在のJR双岩駅のある場所であるから笠置峠へ向かう途中にあるのだ。
そして八幡浜旧道(笠置峠)以降に新しく作る八幡浜新道を、わざわざ“難路”に作る必要も感じられない。
実は俺は数年前から八幡浜にある遍路道を調べている内に八幡浜市にある“川ノ内”という地名に辿り着いた。
蓋を空けてみればそこが八幡浜から大洲へ抜ける“夜昼峠”の入り口で遍路石や遍路の墓も残っている訳だが、その頃はまだ笠置峠が川ノ内から始まると思い込んでおり、実際の笠置峠とは全く違う方向ばかりを見ていた。
(注意)これ以降、画像の“夜昼峠”の夜と昼が逆になってしまっておりますが、そのうち修正します。
そして、川ノ内地区の歴史について書かれた記録の中に“大窪越え”という文字を見つけたのだ。
川ノ内の南部に位置する古藪の住人は宇和町河内にある大窪山福楽寺の檀家になっている。この寺はむかし古藪と宇和町河内との境の山頂にあったが、戦後宇和の河内に移った。川ノ内地区の住人はかつては、遠足で大窪山に登った。古藪の住人は、昭和初期までは、八幡浜より宇和に出る方が近かったため、大窪越えをして卯之町まで買い物に行っていた。
と書いてあり、その古藪地区を地図に当て嵌めてみると、
こうなり、大体の様子が見えてきた。
確かに八幡浜に上陸後、43番札所を目指すとして自然なのは笠置峠越え、もしくは八幡浜新道(鳥越峠)を辿ることだろう。
恐らく当たるか外れるかは別として現時点で大窪越えの予想として一番多いのは八幡浜新道の北側に若山と伊延を結ぶ遍路道があったという仮説だろう。
しかし、高群逸枝の表現を借りて「非常に道をとり違えてまるで反対の方に出てしまった」とすれば、西予市側(笠置峠側)ではなく大洲市側(夜昼峠)に向かってしまった表現がピタリと当てはまり、「仕方がないので大窪越えという難路」を選んだというのも夜昼峠登り口である川ノ内から古藪に切り換えて大窪越えをしたと納得ができる気がする。
そして俺はそれを証明するものを偶然にも見つけていたのだ。
先日、夜昼峠越えをした時は何のことか解読出来なかった川ノ内にあった遍路石には“ふるやぶ道”と“おおず道”を示すものがあり、これを発見した時は“ふるやぶ”をこれから越える“よるひる”峠が訛ったものだと判断してしまったが、今思えば“ふるやぶ道”こそ大窪越えを示すものだったのだろう。
確かに車ではあるが何度と無く古藪地区の麓を走った俺はその急斜面さと、更にその奥で大窪山に向かう道が難路であることは想像がつく。
ただし、この遍路石は大正10年の物と言われ、高群逸枝が遍路をした3年後のものである。
話が少し脇道に逸れるが“きこりが通るような道”という表現もに関しても、まだ遍路をスタートしたばかりの人ならそんな表現をするのは頷ける話であると思う。
例えば現代人ならば初めて目にする遍路道を“獣道のような”と表現するだろうし、大正時代がどのような交通事情だったのかは分からないが、彼女らが今のアスファルト事情とは違って山道を“獣”ではなく“きこり”と言うのも自然な気がしてしまう。
伝わりにくいかもしれないが、アスファルト道を獣は歩かないが、獣道なら歩く、だから当然のことなので“獣”ではなく“きこり”となったのではないかと感じる。
そもそも、何で大窪越えについて考え込んでしまったかというと、今日ふと“初心者遍路はとんでもない思い違いを起こす”ことを思い出したからだ。
結果が分かった後だから何とでも言えるが、例えば大正時代に“笠置峠が便利”という情報がどの程度浸透しいたのだろうと疑問に思う。
しかも四国に上陸したばかりの初心者である彼女が情報に恵まれているとも思えない。
スマホ片手に遍路をする現代でもミスの目立つ遍路なのに、ましてや1番札所から打ち始める訳でもなく、半ばの43番から始まる訳だ。
更に本人はどう思っていたのか、70歳を超えるじいさんと共に旅をしては、御互いに判断ミスや、その訂正を遠慮してしまったり、言いたいことも言い出せなかったり、相手に頼りすぎてしまったりと色んな問題もあるだろう。
さて、纏めるとこうだ。
初心者である彼女は四国に上陸後、八幡浜市に一時期あった37番札所に泊まり、その後逆打ちで笠置峠を越え43番札所を目指す計画を立てるも、逆打ち遍路の難しさにより始まってすぐに順打ちルートへ進んでしまう(37番から分岐はすぐにある)。
自分達が逆打ちではなく順打ちで大洲へ向かっていることに夜昼峠(川ノ内)で気付き悩むも、やはり御利益が多いとされる逆打ちを諦められず地元の人から大窪越えの情報を得て、そこから強引に逆打ちで43番札所を目指すことにした。
本来、大窪越えは遍路道ではなく古藪の生活道路である(川ノ内地区の人が43番を目指すこともある)。
超、超、超情報化社会である今、最初ネットで見かけた情報を調べることも、考えることも無くパクって自分の知識とする傾向が目立つが、そうしている内にいつの間にか間違った情報が常識となってしまう場合もある。
俺は八幡浜新道(鳥越峠ルート)=大窪越えだというには位置的に少しズレを感じることや、話の筋からして今回書いた推測の方が自然と感じている。
遍路を世界遺産にする動きには賛成したくないが、昨今遍路道が見直される動きがあるなか、このままでは大窪越えが鳥越峠ルートにされそうなので、ここに1つ意見を残してみたいと思った。
確かにこうやってみると大窪越えは難所である。
今回ここに書いたことは“机上の空論”であり、大窪越えを歩いたことの無い者が妄想として書いたので、また書き加えることもあるかと思いますが、乗り物を使って“遍路”を語るような戯れ言だと思って笑い話にして下さい。
最後に初心者の予想もしない発想(ミス)として俺自身がした経験では、今回取り扱ったエリアを1日持たず挫折して逃げたした初遍路の後、俺は何故か再び車で四国に舞い戻り、何を考えたか高速道路に乗り深夜の愛媛を通りすぎ、徳島(1番札所)に向かう訳でもなく高知県の31番札所から“札所巡り”を始めたのでした。
どんなに今考えても、何故1番でもなく、43番でもなく、31番の高知市まで走り、そこから“札所巡り”を始めたのか全く思い出せません。