なだらかな登りで見所も多い笠置峠ですが、今度は“遍路墓”の看板が出てきました。
笠置峠の遍路道には九州の地名が刻まれた遍路墓が目立ち、この道が九州から上陸した遍路にとって重要だった道であることが伺えます。
最近、大正時代に書かれた娘巡礼記をやっとこさ読み始めたところですが、その頃の遍路がいかに憧れの的であったのか、「四国に行きたい」とずっと言い続け夢叶わず亡くなった祖母を思い出しています。
そして同時に当時の遍路が過酷であり、残酷な理由により四国をさ迷った人が多いことを感じております。
一応添えておくと“娘巡礼記”とは熊本県に住む二十代の女性の遍路体験記であり、まだ序盤の熊本県と大分県の境の町に辿り着いたところまでしか読み進めておりませんが、
九州を抜ける道中でも「巡礼さん」と呼ばれ自宅や寺に泊めて貰ったり、お接待のように食べ物を分けて貰っている姿に昔の信心深さを感じ驚いております。
この方が四国に上陸後逆打ちで進むのが笠置峠なのかは分からないが(大窪越えと書かれており特定出来ていないが“大窪山”のことならこことは違う鳥越ルートの可能性)、八幡浜に一時期存在した37番札所も出てくるところに、
今回歩く笠置峠や昼夜峠、八幡浜街道もまた遍路道であることを感じています。
四国を歩いていると遍路道の脇に多くの墓石を見かけます。
ハンセン病や、口減らしなどで四国をさ迷うことしか出来なかった遍路もいたと聞きしますし、そうでなくても過去の過酷な遍路ですので道中で亡くなる方は多かったようです。
その中には行商などの途中で亡くなられ、地元に帰れない方もいらっしゃいました。
この自然石の下で今でも眠っておられるのでしょう。
便利な時代となったとはいえ、今でも遍路の途中で亡くなる方はいらっしゃいます。
今は高速で走る鉄の塊が何よりも危険ですし、1200kmという道程を歩くわけですから俺も轢かれかけたことは何度かあります。
最近でも遍路小屋で亡くなっていた方が発見されたこともありました。
先程の写真に写っている看板には、そんな遍路達を戸板に乗せてこの場まで運んで埋葬し供養した一文が書かれており、四国各地でこういった供養は行われていたようです。
所々で林道と合流したり、また遍路道に入ったりしながら笠置峠を歩きました。
道案内も多くて非常に気持ちの良い道ですね。
そうしている内にそこまで苦労すること無く峠付近にある小屋に到着しました。
暑さの残る時期に日陰の林道であったことが本当に有り難かったです。
この先に峠の地蔵と古墳があるはずと先に進もうとしますが、後から「休憩しようよ…」との囁きが。
虫が苦手な俺ですので、こういった山の中にある風通しの悪い小屋には入りたくありませんし、少し先に峠の地蔵も見えていたので、そこまで進みたい俺は相変わらず自分のペースで歩けない遍路にウンザリします。
小屋の前の看板には峠に茶屋があったことや、シーボルトの娘である“イネ”さんについて書かれております。
その横にはこの先にある古墳についてや、またまた“イネ”さんのこと、峠の地蔵の由来や、そこで相撲が行われていたことなどが書いてあります。
追いはぎや物の怪が出ることによって峠に地蔵が安置されたと書かれていますが、過去の遍路では山賊も当然のこと、遍路の途中で博打に巻き込まれたり、そんなことも多かったとか。
さてさて、小屋で休みたいと言う人は置いといて、俺だけ峠の地蔵とお休みしましょう。
俺の遍路は“古道を歩く”、それはつまり古道の証明である遍路石や石仏と逢うことが目的です。
「あなたに逢いたかった!」と遍路石や石仏に問い掛ける遍路は俺だけかもしれません。
因みに今一番逢いたいのは石槌山の修験道である今は廃道になってしまった黒川道の上の方にある蔵王権現であり、その道中の三界地蔵や不動明王、モエ坂を下った所にある地蔵には必ずこの足で逢いに行こうと思ってます。
「峠のお地蔵さま初めまして、九州は都城から来ました、とんでもないアル中ことあだちです。あなたに逢いたかった」
九州からの遍路としてずっとこの道を歩いて見たかったのに、興味を示さないビーニャによって随分と遅い「はじめまして」となってしまった。
なのに小屋で休んでいるアイツ、「笠置峠凄く良いじゃん!」とかほざいて、なんであんなにニコニコして歩いてんだ。
廃仏毀釈の影響なのか顔が削られ、足元にある二体の地蔵さんもお顔がありませんでした。
ネット上の情報では、皮膚病治癒の願掛けによって削って持ち帰られたとのことですが、そう言えば真田幸村の子孫の墓なども強さの御利益を求めて削られ持ち帰られたと聞いたことがあります。
少し廃仏毀釈について話すと、明治に起こった廃仏毀釈により多くの宝が失われました。
俺の地元、宮崎県都城市は明治政府の中心人物が多かった影響か(もともと薩摩藩)、殆んどの寺院が破壊され、それと同時に仏像や仏具も焼却されてしまいました。
仏像好き、お城好きとしては廃仏毀釈や廃城令はとても受け入れられないことであり、残念でしかありません。
背後にある名物だった大木も枯れてしまっております。
峠のお地蔵さんの台座は遍路道標の役割も果たしており、
是より北いつし江五り
“いつし”または“いずし”とは別格7番札所出石寺(しゅっせきじ)のある出石山(いずしやま)、
やわたはま江二り、と刻まれている。
遍路道標に八幡浜や出石寺の文字が刻まれているとこが嬉しい。
因みに“八幡浜”と書いて“やはたはま”と読んでしまう人が多いと思うが“やわた”であり、八幡とは、やはた、やわた、はちまん、と実に判断の難しい漢字である。
元々は“やはたはま”と呼ばれていたがハ行転呼によりハ→ワに変換され“やわたはま”となったようだ。
向かい側には、
これより南あけいし江二り十丁、と刻まれており、
“あけいし”とは43番札所明石寺(めいせきじ)のことを言い、本来は“あげいしじ”であった為、今でも“あげいしさん”と呼ばれている。
こうした古来の名前が刻まれた遍路石と出逢うことにロマンを感じ癒される俺である。
追記:その後、大窪越えについて自分なりに考えを纏めましたので、興味がありましたら机上の空論遍路“大窪越え”をご覧下さい。
いつもながら、あだちゃんの学究的遍路
には 興味をそそられる。
今日は特に冴えてる。
ビーニャさんに関する件りには 笑った。
ところで「八幡浜」、
ジジイの知ってる年寄りは だいたい、
「ヤータハマ」と呼ぶね。
じじぃ様
なんと、返信したはずなのにされていないことに今気づき、ずっとコメントスルーのようになって申し訳ありません!
何と書いたかを思い出しながら、そうそう“学究的”という言葉を初めて知って調べてみたところです。
それと地元の方に“ヤータハマ”と呼ばれていたことを知れたことすら嬉しいことに自分の“学究的遍路”を感じます。
うーん、何でこんなに遍路は興味を引くのだろう…。
四国に住みたいです。
うーん、コメントを何度投稿しても反映されない…。これは届くかな…?