遂に旅を終える日の朝が訪れました。
昨晩、迷いに迷って辿り着いた内子のキャンプ場。
川の向こうに見える国道は何度となく久万高原町を目指して通った道ですが、ここに泊まったのは初めてでした。
今回は8泊の旅でした。
内5泊6日は歩き遍路の旅、残りは移動日と旅を終えてからの御礼回りでした。
篠山道を含めた難関でしたが、終わってみれば100kmを5泊と言う短期勝負の旅でした。
今日は九州に戻るためのフェリーを11時に予約しているので、限られた時間ですがちょっと寄ってみたいところに向かいます。
テント生活も今日で暫くおさらばです。
背負って歩ける程度の小さなテントで大人2人と大きめの犬2匹(合計体重45㎏)の旅でした。
愛媛県内子町のキャンプ場から西に進み、大洲市、八幡浜市と移動して辿り着いたのは、旧37番札所吉蔵寺です。
遍路とは無縁と思える愛媛県八幡浜市に旧37番札所があったことはあまり知られていないことでありますが、本や文献にもしっかりと残っているしっかりとした元札所です。
曹洞宗のお寺ながら、大師堂や大師像もあり、南無大師遍照金剛と彫られた石碑もあります。
現37番札所、高知県四万十町にある岩本寺もまた神仏分離の影響を受けて、とても複雑な歴史を持つお寺でした。
手元にある眞念(真念)著の四國遍禮道指南(1687年)を開くとこう書かれております。
三十七番 五社(※)あります。東向き。高岡郡宮内村。この惣の名を仁位田村といいます。
本尊について…五社とも秘仏で弘法大師作とのことです。
別当の岩本寺はここから離れた窪川町に寺を構えております。
(※)現在の札所は岩本寺。江戸時代、五社として現在の高岡神社が札所であった。
別当寺とは神社を管理するために置かれた寺のことを言うようです。
神仏分離の影響により37番札所となった岩本寺が衰退していたころ、この八幡浜に住む大富豪が不思議な体験をもとに岩本寺から本尊や納経版木を買い取り、ここを37番札所として吉蔵寺を建てました。
その後、岩本寺に返却されるまで半世紀以上37番札所として存在し、九州から船で訪れる遍路達の玄関口となっていたようです。
大師堂には消えかけた「四国第三十七番」の文字と、
最近でも見かける巡拝用品も見られました。
境内には大きな宿坊もありますが、現在は利用されていない雰囲気です。
四国八十八ヶ所とされていた面影も消えかけ、とても寂しい印象を受けたお寺でした。
吉蔵寺をあとにして向かったのは、そこから近い八幡浜市のアーケード街でした。
ここに何を見に来たのかと言えば、
そらうみさんから教えてもらった遍路石?情報を確認しに来ました。
先ほども書いたように、遍路と無縁に思えるこの八幡浜の地にも調べてみれば確かな遍路道に、確かな遍路石は存在します。
九州から八幡浜に渡った遍路達は、笠置峠遍路道などを経由して43番札所明石寺のある宇和へ向かいました。
と言っても、まだ歩いたことが無いので詳しい話は書けませんが、九州から遍路に来ているものとして一度八幡浜の遍路の歴史を調べ、見て歩きたい夢があります。
九州へ戻るフェリーの時間も迫り、八幡浜港まで来ました。
と言っても我が家は犬と長時間離れることが出来ないため、最近はずっとここから40分ほど離れた三崎港を利用し乗船時間を短くしているのですが、以前はずっとこの八幡浜港が四国の玄関口でした。
この八幡浜港の大きなフェリー乗り場駐車場の一角に、
道しるべが残る場所があり、ずっと気になっていました。
わりと最近のものにも見えますが、やはり八幡浜を歩いて見たい気持ちが強くなりました。
その後、船で九州渡り、今回の旅を終えました。
コロナ禍により約2年ぶりとなった長期の歩き遍路でしたが、「遠い」と思っていた篠山は本当に遠く、なかなか俺たちを招き入れてはくれませんでした。
しかし、遂にそれも達成され、次へ繋げることが出来ました。
本当にいい旅が出来ました。
これにて以前歩いた45番札所岩屋寺までが繋がり、次回は久万高原町から松山市内を経由して今治や、小松の町を目指すこととなります。
そして、あの四国1の聖地である石鎚山を控えることとなるのです。