3巡目

忘れられた遍路道を歩く 八幡浜街道①

御無沙汰しております。

長らく遍路や車中泊旅などの更新が止まっており、大変申し訳ありませんでした。

自叙伝の執筆がスランプに陥っており、また、共に旅をするペットの体力の変化などもあり、ますます思うように進まなくなった遍路に嫌気が差し、旅に対する気持ちや“文章を書く”ことに対する熱意を失っておりました。

また、もうひとつの問題としては、このブログの宙ぶらりんな位置付けにもずっと悩んでおりました。

元々メインとしていたAmebaブログと、こちらの独自ドメインでの旅日記という使い分けが実に中途半端で、本心を言えばこのブログに手を出したことにずっと後悔をしているところです。

しかし、何時までもそうも言ってられないと思い、今までわざわざパソコンに向かっていた更新作業をスマホで出来るようになろうと、再びチャレンジしたのがこの日記となります。

止まっている遍路日記以降は、長期間の遍路(途中で犬リタイア)、車中泊の旅なのどありましたので、また更新をしたいところですが、

取り敢えず今回は更新作業の再開とスマホでの更新の練習も兼ねて先日一泊二日で行い、まだ記憶が鮮明な八幡浜街道、笠置峠と夜昼峠から更新したいと思います。

それではスタート。

ビーニャ「本当は四国に行きたいよ!」

旅の前日、喧嘩をしている訳でもないのに涙ながらにそう訴える四国病がいた。

希望をしたわけではないのに2連休とその前日が夜勤明けという短期旅行にはナイスなシフト、しかも土日…、つまり俺も休み。

「さて、何処に行こうか」と、2台分の車の税金や2台続いた車検と先日の長野、群馬、栃木車中泊旅による酷い支払いの続くのなか候補と上がったのは、費用のかからない九州近県の車中泊旅であった。

ところが、である。

「本当は四国に行きたいよ!」

暗い寝室で連休を翌日に控えた夜、

冒頭の“涙ながらの四国”があったのである。

九州は宮崎、しかも元々は薩摩扱いだった都城市から四国へ向かうのは時間も費用も大変なことだ。

以前とは違って東九州道が完成し、移動が随分と楽になったとは言え、片側一車線というナイスな高速道路では、必ずと言って良いほど地雷が先を走っている。

必死に宮崎県を縦断した先にある宮崎北部の延岡市から大分県の佐伯市まではありがたい無料区間とは言え、無料だけに地雷が沢山走る。

軽トラだって珍しくない。

夜勤明け+今から四国へ向かうハイテンションなビーニャの帰りを待って、俺は都城ICから大分県の津久見ICまでを走り抜けた。

途中で休憩するサービスエリアも少なく、また本線から遠く不便なサービスエリアばかりの高速道路を津久見ICで降りる理由は、ナビの案内する次の臼杵ICまで高速道路を利用するメリットを感じられないからである。

津久見ICを降りるとすぐに峠道に差し掛かり、それをヒョイと超えるとそこはもう臼杵の中心部。

この臼杵港からも愛媛県の八幡浜市へ向かうフェリーが出港しているが、我が家はここから30分ほど走った佐賀関港をメインで利用している。

その理由は航路が短い分ペットを車内に残す時間が少なくて済むし、フェリー代も安く済むのだ。

約2時間半で八幡浜港に着く臼杵港発フェリーと、我々の利用する70分で三崎港に着く佐賀関港発フェリーの差と言えば、臼杵~佐賀関間と三崎港~八幡浜間の車移動やそのコストだが、どちらも大差は無いと感じる。

佐賀関港発フェリーだと前日までのネット予約諸々で割引が大きいようにも感じるし、小刻みに出港している分、気楽に利用できる佐賀関に軍配が上がる。

四国の佐田岬にある三崎港に着岸すると同時に、世間を賑わしている“突然の給食ストップ問題”について被害を受けた職場から「我が校でも来週から給食がストップ」との知らせが舞い込み、いつもの事ながら『四国は何故か人生の転機に現れる』と感じた。

その日、我が家はお馴染みとしている内子町のキャンプ場まで走り、翌日から始まる遍路へ向けて就寝した。

いくら2泊3日で遍路をする時間が取れたとは言え、宮崎県~四国間の往復を考えれば1日が潰れてしまう。

スムーズに行ったとしても片道5時間で高速道路、フェリー、ガソリン代金で15,000円では済まない。

と言うわけで今回は1泊2日しか遍路に充てられない為、九州に近いエリアでの遍路を計画した。

前回の続きと言えば香川県の宇多津からの再開となるが、流石に香川まで行くには時間も費用も無理だったので、今回はずっと、ずっと、ずっと歩いてみたかった“八幡浜街道”を歩いてみることにしたのだ。

最近、国の史跡に認定された八幡浜街道であるが、今となってはすっかりと忘れられた存在となった遍路道である。

九州から船で四国へ上陸した遍路の通る道でもあるし、別格7番札所出石寺へ向かう道としても利用されていた。

今となっては43番札所のある西予市から44番札所へ向かう遍路道は大洲市、内子町、久万高原町という順になっているが、今回歩く八幡浜街道も遍路道であることをこの目で確認したいと思ったのである。

まずはスタート地点に近い上宇和駅に車を停めさせて貰う。

お遍路仲間との思い出の地でもあるし、四国でお世話になっている方との思い出の駅でもある。

そして43番札所近い下松葉交差点へ戻り、遍路道を繋げる事とした。

現代の遍路は写真右奥の道へと進むが、今回我々は写真の左側である西方向へ向かうことになる。

その交差点のビーニャさんがしゃがんでいる位置に、

我々の向かう先を示す遍路石がある。

手印(北向き) 遍ん路みち 八幡浜新道

左 八幡浜旧道 津布理道 

明治40年に作られたと思われる遍路石だ。

八幡浜新道とは現代の遍路道を示す“遍ん路みち”の途中から西へ向かう道であり、これもまた別格7番出石寺への道として使われた。

我々が向かう八幡浜旧道には笠置峠遍路道があり、そのずっと南西に津不理という地名があるが遍路とは縁の無さそうな位置である。

ここから先は遍路道保存協力会の遍路地図にも記載されていないため、遍路道を予測しながら歩かなくてはならないが、自分が遍路に溶け込めばそう難しいことではない。

歩き出してすぐに“四国のみち”へ曲がる細いみちがあるが、そこを曲がると上宇和駅を経由して鳥坂峠へ向かう道なので我々の目指す道とは違うようだ。

下松葉交差点にある遍路石を調査していた俺を置いて出発していたビーニャさんはそちらに向かって歩いていたので、俺は後ろから「バイバ~イ」と手を振って津布理道へと進んだ。

所詮、人の背中しか追わない遍路などこんなもんである。

個人的な見解だと、いにしえの遍路道の多くは川に沿ってある場合が多いと感じるので、この先にある肱川沿いを歩いて見ようと思った。

そして川に面すると、果たしてそこに橋がかかっていたのかを予測するのは不可能に近いため肱川の手前を曲がることにする。

が、川を右折して農道を歩こうとしたその時、奇妙なものが目に入ったので近寄って確認することにした。

橋を渡った先に大きな草鞋があったのである。

『なんだ…これ』と、山門でもここにあったのかとアレコレ考え、たまたま近くにいた方に、この草鞋について訊ねたところ「何かは分からないが自分(40代?)が幼い頃からある」とのこと。

先ほどの遍路石にも“津布理道”とあったように、この場所には橋が掛かっていたと予測する方が自然となった。

しかし、この先に目印が見付けられそうにも無かった為、橋を渡った先の農道を右折し、その先で鉄道によって通行不能となる前に左折することにした。

その先の交差点に神社があり、そこをまた右折し、笠置峠があると思われる山裾を目指し、県道25号方面へ向かった。

県道25号線に合流すると、更に少し北側にある山裾に合流すべく、脇道を探しながら歩いた。

なぜ山裾を目指すのかと言えば、遍路道の情報が殆んど無い(と思われた)なか、唯一掴んだ情報と言うのが“山裾にあった池から遍路石が見つかった”という情報であり、その池を探した結果、山裾に3ヶ所の池を見付けたからだ。

残念ながらその遍路石がその後どうなったか、情報によると個人宅に持ち帰られたとも見かけたが、存在含め確認することは出来なかった。

山裾を民家に沿う形で歩き2つ目の池に差し掛かった。

再び分岐を迎え右に進もうとした時、俺の目が木の根本にある石を捉え『まさか!』と思い近寄って見た。

「うぁぁぁぁ!マジかぁ!!!超嬉しい!!」

そう叫び近寄った先にあったのは、

ここが紛れもなく遍路道であったことを証明する道標だった。

大騒ぎで喜ぶ俺を近くで見ていた農作業中のじいさんが「そこ、看板が倒れてるやろが」と話しかけてきた。

そう言われて俺が起こした看板が写真に写る立て看板である。

「ここ、遍路道やったんよ。ほらそこ」と、畑作業をしていたじいさん2人と会話をしながら、俺はここが遍路道であったことと、情報を掴んでいなかった遍路石を見付けたことに大喜びした。

自力で解読は出来なかったが、後ろにある看板が示す通り、

左 八幡濱 右 卯之町 とあり場所からして不自然なので元の位置から移動している遍路石だろう。

今考えるとこれが情報にあった“池から見つかった遍路石”なのではないかと思われる。

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