2週間前に四国(八幡浜街道)を歩いたばかりだけど、再び四国に来る用事が出来たので遍路道の探索に出た。
同行した母が31番札所の参拝をしている間に、俺は2ヶ所の遍路道を探す。
探索出来る時間は限られているので、入り口だけ確認して次回歩いてみる作戦だった。
竹林寺には4個の遍路道が残されていると言われる。
1、北側にある今の主流の遍路道
2、32番札所へ向かう今の主流の禅師峰寺道(南側)
3、竹林寺道(西側)
4、お馬道(東側)
見ての通り東西南北にそれぞれ存在する。
1と2は殆んどの人が通る道なので、今回は3の竹林寺道を探し、時間があれば4のお馬道を探すことになる。
はい、早速“竹林寺道”見つけた。
この道が単なる参道ではない理由が既に写真に収められているが、
階段登り口にはお馴染みの中務茂兵衛さんの百度目と刻まれた遍路石が存在する。
つまりここは遍路道である。
何故、今とは違う西側に“竹林寺道”という本命の道があるのだろうか?
答えは簡単で、今でこそ簡単に橋が各地に掛けられているが、昔はそうではなく30番札所を打ち終えると船で移動していたと言うことです。
今メインで使われている北側遍路道はあくまで橋が掛かってのストレートルートですね。
“五臺山”と刻まれているのだろうか?
その下には“伽藍”と刻まれており、遍路石にこの文字が刻まれていることは珍しいようだ。
五と山の間のこの文字は“台”の旧漢字“臺”と思われる。(文献では䑓の場合あり、変換で出てこない。読み方は同じダイ)
竹林寺は五台山にあるのだ。
五臺山の文字の上には手印が山の方を指差している。
そして、くるりと裏側に回ると実に面白いものを発見した。
逆打ち側となる面には、
右 高野寺 安楽寺 とある。
逆打ちなら30番札所の善楽寺と思われるが、過去に30番札所が失なわれた時期があったのは有名な話であり、明治初期の神仏分離により四国でも多くの札所が廃寺となった。
本尊などが29番札所に移され、そこで納経していた時期もあったが、同じく廃寺となっており後に再興された安楽寺に本尊が移され30番札所とされた時期もあった。
それから55年後に現30番札所善楽寺も再興され、30番札所が2ヶ所存在した時期もあった。
だから色々揉めたり、混乱したりで結局は元の善楽寺が30番となり、安楽寺は奥の院となった。
それにしても55年間も善楽寺が無かったなんて、その時代に生きた人で本当の30番札所を知らなかった人も多いことでしょうね。
もうひとつの高野寺とは、高知市中心部に明治になって板垣大助生誕の地に創建された寺院であり、番外札所でもあるようだ。
この遍路石は明治21年の物だから、もろにその頃の遍路石となります。
神仏分離令 明治元年(1868)廃寺が進む
安楽寺再興 明治8年(1875)30番札所
高野寺創建 明治15年(1882)
遍路石誕生 明治21年(1888)
善楽寺再興 昭和5年(1930)30番札所
善楽寺と安楽寺が協議 昭和39年(1964)
奥の院と言う形で決着 平成6年(1994)
『ふむふむ…』と遍路石の前で立ち尽くし、このまま竹林寺道の調査に登りたいところですが母をここに置いていく訳にいかず、竹林寺まで連れていかないといけないので次回歩く時の課題として、ここからは車で竹林寺へワープします。
結局、竹林寺道を歩くことは叶わなかったので、以下は予想でありますが、
竹林寺から禅師峰寺へ向かうお馴染みの山門前の遍路道を少し下って、
いつもは左折(禅師峰寺道)の分岐のもうひとつ(正面)が竹林寺道を登ってきた道だと思います。
因みに左の禅師峰寺を示す遍路石には“峯寺”と刻まれており、ここから先がよくこけることで有名な遍路道となります。
今回、何故竹林寺道の調査をしたのかと言えば、今ではペット2匹と遍路をしている我が家の問題として、北側遍路道が通る“牧野植物園”内をペット連れで通れない可能性があったからです。
きっと次回竹林寺へ来る頃にはカイの加齢によりどのみち登れないどころか遍路の継続するすら危ういのですが、
そこはまぁ、遍路道おたくとして調べてみたということで。
お馬道も続けて書こうと思ったけど、ここまで書いて疲れたん。
因みに遍路道の特定は地図アプリとにらめっこしたら見つかりました。