遍路

奥の院いっぱい 区切り遍路36日目③

遍路道探索隊! 区切り遍路36日目 ②からの続きです。

 

愛媛県宇和島市にある番外札所”馬目木大師”に到着しました。

この旅の最終日である6日目の記録を書いているのは、旅を終えて2ヶ月が経とうとしている1月末。

中休みもありましたがコツコツを記憶を思い出しながらこれだけ書けるほど、本当に中身の濃い篠山旅となりました。

一般的な遍路さんならまず拝んで次へ進むのでしょうが、俺の場合はまず探検から始まります。

遍路の歴史を感じるものや、石で作ったものが大好きなのです。

こじんまりした馬目木大師も、その周りをぐるっと回るととても沢山の石碑があります。

これは仏さんか何かを掘った石仏が割れたものでしょうか?

割れてるし、俺にください。

見ても全く解らないのですが、興味津々に見て回ってます。

こんな綺麗な形に、こんな綺麗な文字を掘る技術に驚きますな。

 

因みに俺が書く字は本当に汚いです。

字の書き方は「字を書けずに苦労した」と言う父に拷問と呼べるほど過度な教育を受けましたが、大人になるにつれてどういう訳か汚い字を書くようになりました。

きっとあの頃抑え込んでた気持ちが反発として表れているのでしょう。

 

時に親父よ。

現代は画面をタッチして文字を書く時代となっておる。

1999年に亡くなったあんたに”タッチ”と言っても解らないかもしれないが、知らなくていい。

現代は本当に変な事件が多発しているし、変な病気が世界中に広まっているんだ。

あんたの好きな戦争も起きようとしている。

きっとあんたが生きた時代の方が人間らしく生きれた時代だと思う。

人間が科学の進歩に全くと言っていいほど付いていけて無くて混乱しているんだ。

 

しかし何故に、そんな時代を生きたあんたがアルコール依存症を克服するほど、人間らしく生き直すことが出来なかったんだ?

今、あの世から、あんたの1番出来が悪く暴力を振るい続けた長男の俺を見てあんたは何を思う?

 

今回の旅、

俺は、俺の肩に乗るあんたの母親をずっと感じていたよ。

「四国に行きたい!四国に行きたい!遍路に行ってみたい!」と福岡の地で叫びながら死んでいった婆さんを。

「今度連れていく」と言いながら、ハンドルよりも焼酎を握り続けたあんたの代わりに、

「何故こんなに俺は四国を歩かされるのか?」って、嫌ってほど問いかけながら歩いているけど、

その答えはいつもあんたの母親の「四国に行きたい!」に行き着くよ。

「ああ、俺が肩の乗せて、代わりに歩いているのか」って。

俺の「四国に行きたくない!」より、婆さんの「四国に行きたい!」気持ちが勝っているのだろう。

俺はもっともっと「四国に行きたくない!」気持ちを磨かなくてらいけないな。

 

こんな話しなくても分かってるよな。

あんたもその母親と一緒に俺の肩に乗って歩いてるんだ。

 

「俺の代わりにごめん…」って。

 

ザックだけですげー重いのに。

もう謝らんでいいよ。

任せとけって。

不幸の世代間連鎖を続けてしまった俺の先祖たちよ。

俺が俺の代で不幸の連鎖も酒も断つから、安心して肩に乗っとけ。

全て受け止めてやるって。

牢屋も精神病院も自〇も、もう子や孫に引き継がんでもいいやろ。

俺が精神疾患から回復して、いつか真実を子に伝えるから。

 

っと、何で俺は書きながら泣いているんだ?

さぁ、自己憐憫から戻ろう。

 

こんなことを思い出すって、本当に遍路は不思議だ。

じゃあ、勝手に供養されとけよ。

馬目木大師堂の裏にお墓でしょうか?

ずらっと並んでいますよ。

ここにも沢山の人生のドラマが眠っているのでしょう。

走馬灯のように、深く、色んな記憶が。

良いことも、辛かったことも、後悔していることも、全てを子に引き継ぎ、孫に残し、そして輪廻転生する自分へと。

大師堂の裏から側面に回って目を引いたのは”大師堂”と言う文字と、”奥院之〇”の文字。

〇に入るのは”結”だろうか?

ここの地名は元結掛(もとゆいぎ)と読むらしいけど、その”結”なのか、遍路をしていると”結”の文字を沢山見かけるからわからない。

ここに来て昨晩そらうみさんから教えて貰った話を思い出した。

宇和島に九島という島があり、その島に通称”鯨大師”と呼ばれる40番札所奥之院願成寺がある。

しかし九島へ船で渡るのも不便なので、この地、元結掛にあった大師堂に奥之院が移され元結掛願成寺と名乗った。(1631年)

それ以前は鯨大師の札掛としてもこの大師堂は使われていたようだ。

しかし明治に入ると現在の40番札所奥之院とされている別格6番札所龍光院に更に移されることになる。

札所の移り変わりは長すぎる歴史によって紐解くことは不可能ではあるが、本当に調べていくと目まぐるしく変わっている。

忘れてはいけないのは、今回の難所であった篠山の廃寺”観世音寺”も40番札所奥之院であった歴史があり、その時期は鯨大師や馬目木大師と被る時期もあるのか、

さらに今でも篠山神社は40番札所の奥之院と言われ、40番奥の院がどこの何だか俺には整理がついておりません。

ハッキリと言えるのは40番札所には篠山大権現を”当山鎮守”と表記して奉る社もあるので、篠山とは深い繋がりがあると言うこと。

 

とりあえず篠山の札掛含め、この馬目木大師に立ち寄り過去の歴史を感じたり、九島の鯨大師に札を掛けでみたりと思えば、ここに立ち寄る意味も濃いものとなります。

元結掛と言う地名も、この地で頭を剃り仏門に入った人が髷を結っていた紐(元結)を掛けたことから着いたとか。

札を掛けたり、紐を掛けたり、それでOKとする人間の心理って面白いですね。

余談ですがここと似たように、離れた島にあり札所が別当寺として四国本土に置かれたことで有名なのは55番札所南光坊ですね。

過去の話と、先祖への回想をしながら馬目木大師堂を一周していると、退屈したシワシワはシワシワしながら落ち葉の絨毯の上でシワシワしてました。

その奥でもう一匹は肩肘をつき、太陽に照らされながらくつろいでおりました。

その間にも落ち葉を掃く人や、お参りに来る人など、この大師堂は今でも愛され綺麗に管理されておりました。

その方から銀杏の種で作ったお守り?のお接待をいただきました。

宇和島の人って特に温かく、自然に声をかけてくれますね。

さて、馬目木大師を後にして歩き出すと相変わらず歩きにくい街中を進むことになります。

目の前には現存天守の宇和島城が見えてきます。

小さいお城ながらも現存であることを初めに、たくさん語られることのあるお城です。

宇和島の街を車で走ると本当にめんどくさいのは、国道が何度も折れ曲がるところです。

その度に俺はこの宇和島城を思い出し、築城の名手と言われた藤堂高虎を思い出します。

敵を欺くため、実は五角形の形をしている城郭で、それを基準に街が広がったので、その罠に今でも踊らされているのでしょう。

 

そんな街中を歩いていると後ろを歩く遅い人が立ち止まり何かを指さし言ってます。

その指の先を見てみると、

じゃこ天の自動販売機がありました。

只でさえ歩くのが遅いのに「何か食わせろ」とまで言ってきます。

何で女性と言うのは食に強い執着をもっているのでしょうか?

こんな場合はとりあえず食わせないと、第二次宇和島大戦が始まるのでとりあえず食わせましょう。

約4年前に起きた第一次宇和島大戦ではお接待で泊めてくれた方を巻き込み、酷い被害を宇和島の街にまき散らし、宇和島の街を半壊させました。

同じ過ちを繰り返さないことが断酒道と心得ております。

俺もついでに竹輪を買い、竹輪を食べながら宇和島の街を歩きました。

ここの店で作っているじゃこ天を自販機で販売していたのでしょう。

魚のすり身の独特なにおいを感じながら、宇和島が海の街であることを思い出します。

カクカクと宇和島城下の国道を折れながら歩きます。

第一次宇和島大戦の時は俺から見捨てられた人がこの宇和島迷路に遭難してましたね。

1人で歩けないなら遍路辞めればいいのに。

城の麓に和霊神社がありますが、ここは俺達の興味がある野宿ポイントとは違った和霊神社のようです。

アーケード街も近づき、商店街に入ります。

目指す別格6番札所龍光院も近づいて来ました。

たまたま通った道に客の並んでいる弁当屋があり、竹輪を食べたばかりなのですが、目をキラキラさせ始めた奴がいたのでここで昼食を買うことにしました。

お腹を空かせると街が壊れます。

 

余談ですが、2016年、宇和島と九島を繋ぐ九島大橋が開通しました。

 

奥の院戻せよ。

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