海沿いの喧嘩! 区切り遍路39日目③からの続きです。
昨日はまさかの喧嘩だったが、どうにか旅を続けらることができるようだ。
出発前夜から喧嘩に振り回され、四国までの移動でも「心のブレーキのかけ方」を散々話し合って来たのに、
悲しいかな、人は落ち着いている時は分かった気になっても、いざ感情が乱れた本番に生かすことが出来ない。
「やはりこうなったか…」と非常に落ち込みはしたけど、着実に自分たちの喧嘩にもいい変化も現れて来ている。
本当にずっと思っていることがある。
「遍路はひとり」ということ。
夫婦で歩く人たちも多い。
旅をしている間にある時期を遍路仲間と共に過ごすこともある。
その出会いは確かに大切で、必要あって起きていることであるとは思うけど、
俺の経験を話するとすれば、人に非常に気を取られる性質の俺と言うこともあるのか、過去を振り返ると人と共に行動した日の記憶は圧倒的に薄いものとなる。
だから未だに遍路仲間に会いに行き、共に歩いた1日を後悔することも多い。
1人で歩いた1巡目のこと。
不安の強い女性だったと思う、ずっと誰かしら遍路を見かけると着いてくる人がいて仲間内で長期的に問題になったこともあった。
何故か着いてくるおじさんに、当時はひきこもりから出てきたばかりで太っていた体形のことをずっと言われながら歩いて凄く嫌だった記憶もある。
俺は遍路に「自分を見つめる」と言う要素も含んでいるため、考え事をしながら歩いていたいと思うが、人と歩くと本当にそれが叶わない。
気を使ってしまいせっかくの風景の記憶も殆んど残っていない。
やはり、約1200kmと言う山あり谷あり、雨、風、暑さ、寒さと言う長く濃い旅をする中での一人の選択の連続は、
成功も失敗もあり、1日感情を引きずる日もあれば、1日気分よく旅を出来る日だってある。
その毎日の積み重ねが四国と言う大地を一周することに繋がり、大きな思い出となるのだ。
人間は脳を出来るだけ使わないように出来ていると聞いたこともある。
普通に生きていても、人の選択に依存していたら無難な人生を送れるだろう。
何より、人の考えに依存して生きていれば、失敗の責任だって人に依存することが出来るし、自分で挑戦も判断もしなくて済む。
実は、自分で選択をしたがらない人の深層心理にはこれが見え隠れするわけだが、もちろんそれを続けるデメリットだって沢山存在する。
自分で舵を取らない人生には空虚感が漂い、生きている実感を失うものにもなるし、当然薄っぺらい人生を送ることになるだろう。
そうした経験により精神病院まで行き着いた俺だから、遍路の最中は出来る限りを自分で選択して、その成功体験、失敗体験、様々な感情を十分に感じて欲しいと思っている。
多くの人が遍路と言う大、大、大冒険を自分の人生の1ページにしたいと思う。
ならば、遍路と言う大冒険から必ず引き戻される日常に、この経験を落とし込む難しさも感じて欲しいと思う。
人それぞれ「普通」が「普通」であり、「非日常」の遍路を「日常」に生かしたいと持ち帰るわけだから、
人生 即 遍路、
この旅で出来るだけ勇気をもって選択肢を自分自身で見つけ、自分自身で選択し、その成功体験を日常に持ち帰って欲しいと思う。
昨日は日が暮れて辿り着いた温泉近くの浜辺でテントを張った。
いつも砂浜にテントを張ると、何処まで海水が満ちてくるのか?と怖くなるが、その見極めも何となくわかってきた。
目覚めてテントを開いたら、声が出た。
俺「綺麗だ…、凄く海が綺麗だ…」
朝の海が、真珠のような色とでもいうのか、薄青いとも、乳白色とも言えないその色が揺れる風景に、ずっと「綺麗だ…」と言い続け見とれていた。
四国でこうして野宿旅と言うものをさせて貰い、テント生活をしていると本当に自然が身近になって色んなものを見せてくれる。
言葉で上げ切らないほど本当に沢山の顔を見せてくれる。
その度に俺は過去の依存症と言う空虚を生きていた自分からの回復を感じ、
感じ、
感じ、
感じ…、
取り戻した自分のスピリチュアリティを、ここでもまた、感じる。
今まで何度2人で真夜中の空を見上げ星の綺麗さに声をあげただろうか?
家に住むと何故にこんなにも自然が遠くなってしまうのだろう?
長く海に見とれていたが、いつまでもこの場所にとどまる訳にはいかないのがこの旅。
朝の支度を終えて遍路道に戻り、今治を目指すことになる。
出来るだけ遍路を感じたい我々は、出来る限りの霊場を見て歩きたいと思い、番外札所と言う所にも立ち寄るようになった。
88ヶ所の他にも別格札所もあり番外札所もある。
歩くことを何より意識しながら、その歩いた人々の痕跡を求め、霊場を回る。
ここにも新しい時代の遍路石。
明治33年建立でよく見ると廃藩置県後の”山口県”なのが分かる。
遍路もその時によって目に入るものが違ってくる。
それを伝えられるのは、それを経験した人だけ。
そして、伝える手段を持っている人だけ。
狭い港町の路地を歩き、番外札所杖大師に到着した。
小スペースの境内には遍路の痕跡を感じられるものもあった。
これもまた色んな経験があり、蠟燭も線香も持ち歩かない我々だが、勇気を出して投げるお賽銭も別格や番外札所限定。
白装束で固めていた時期もあったし、更に白くなろうとあれこれ探していた時期もあった。
札の色も2度変わり、遍路に慣れてきた頃には出来るだけ人と違うものを選ぼうと探したり天狗になったが、色んな失敗をしたこともあった。
しかし、経験を積めば積むほど俺のスタイルから白さが無くなり、本に書かれている「お遍路さん」とはかけ離れていった。
しかし、唯一、白くなったものがあった。
俺の納め札は3回目の色の変化により白くなった。
杖大師から鎌大師を目指していると、左手に新しいルートが出来ていたようだ。
お山さんの迷っている左への道は以前無かったと思うが、通常ならば写真中央の”青看板”の奥に見える鴻之坂(こうのさか)越えを選ぶ。
出来ていたのか復元されたのかは分からないが、非常に迷った結果今回も鎌大師へ向かう鴻之坂越えを選ぶことにした。
極力新しい道を歩いて見ることにしているため無念をずっと引きずったが、この道はきっと海沿いを進む道であり古の痕跡(お堂や遍路石)は無いと判断した。
遍路の歴史を調べると1940年に国道が開通するまで鴻之坂越えが主要の生活道路だったようだ。
鎌大師を目視するよりずっと前から「汗…」と頭の中がウンザリする。
これから向かう先に、個人的に「愛媛のべた踏み坂」と名付けている坂が山の中に見える。
坂=汗が俺の脳内であり、俺は修行を重ねていつか汗1つ掻かず遍路を回れることを夢としている。
汗を掻かないという、俺の目の前を歩く茶色い獣たちが本当に羨ましい。
本当に野宿で風呂に入れない日が、俺の最も苦痛な日なんだ。
それなのに一緒に歩く人が「頑張らないといけない日もある」ことに気づいてくれないことに最近イライラすることもある。
30km先にお風呂があるような日くらいは「普段、甘えている分、今日は自分が頑張らないと!」と自ら湧き上がる何かがある人になって欲しいと思う。
俺「30km先の風呂があるけど、今日は何処で野宿にする?」
お山さん「30kmはキツイかも…、20km先の所にしようよ…」
俺の遍路の優先度は1に風呂、2に風呂、3に風呂なのに、何故歩けない人に合わせないといけないのだろう?
鎌大師の境内で休憩させてもらった。
丁度トイレを探していたので有難かったが、座ると膝が壁に当たるような、そんな省スペースのトイレだった。
旧遍路道から移設された道標には鎌大師の本尊が弘法大師によって鎌で掘られたものであることが示されている。
遍路石に興味を持ち出して驚かされるのは、その殆んどは既に失い、残っているものも時代の変化と共に移設されたものが多いと言うことだ。
鎌大師を出発するとすぐに鴻之坂を登ることになる。
この日は峠で工事中だったため車両は通行止めだった。
峠付近に振り返らないと気付かない中務茂兵衛作の遍路石。
この辺りから道路工事の誘導員が立ち、誘導されるまま焦って写真を撮り、通り過ぎる。
峠を越えて緩やかな下りに入ると浅海地区と瀬戸内海が眼下に広がった。
その浅海地区に下りる分岐点に仮設トイレと飲料不可のタンク水がある展望のいい休憩所。
野宿候補地の1つだったが、昨日の頑張りもあって今日は昼前にはここを通過した。
写真に写るカーブミラー下にある遍路石には53番札所”圓明寺”が”延明寺”と彫られている。
因みに53番札所が圓明(えんみょう)寺で、次の54番札所が延命(えんめい)寺なので、間違ったのか、延明寺と書いてた時期もあるのか、それとも中間を取ったのか詳しい話は分からない。
こうした古を感じられる遺物に本当に魅せられる。
ストップしたっきりだったので、気になってたが、いつも通りの あだっちゃん節が聞けてよかった。
あの海沿いの歩道は、雰囲気いいんだけど幅がせまいところに結構、自転車通るから。でも怒鳴ったのが お山さんだったとはね。
どうやらお山さんも あだっちゃんに負けず劣らず ブチ切れキャラのようだから
この先どんな戦いが勃発するか、楽しみ、あ、いや、し、し、しんぱいだ。
待ちに待ってた記念すべき、こちら側のコメント第1号ありがとうございます!
本当にあの道は意外と通りが多くて今回驚きました。
毎年の年初めの不調がいつもより長く続いてしまい、1ヶ月半も更新が止まりましたがボチボチ再開していこうと思いますので改めて宜しくお願いします。
更新のしょっちゅう止まる某野宿女犬連れ遍路日記のようになってはいけませんからね!
因みに、あのブチ切れキャラですが、今日久し振りにブチ切れて失踪してますよ…。ったく…。
願!無事帰還。