食遍路 区切り遍路41日目①からの続きです。
区切り遍路を再スタートして今治を歩く初日の今日。
55番札所から56番札所、そして奥の院と歩いたので目指す次は57番札所栄福寺です。
56番札所泰山寺からはちょっと迷路のような住宅地を歩きます。
道標もあるし、遍路石も残る遍路道。
大きな遍路石の上部には弘法大師像と立体的な指さし。
天保15年辰九月の遍路石で1844年でしょうか?
1844年12月に元号が天保から弘化に変わり、時代は江戸幕府で徳川将軍12代目の時代ですね。
徐々に市街地から離れ、交通量も減ってきたので少し歩きやすくなりました。
目指すは右に見える山ですね。
色んな旅の写真や動画を見ると当たり前のことではありますが、暑さや寒さが伝わりません。
因みにこの日は涼しくて非常に歩きやすい日でしたが、重い荷物を背負い歩くため、多少の汗は書きますし、これから向かう先は山の上であります。
我々の旅は、出来る限り自分で背負い、それで生活をします。
食料や風呂以外は自立を目指して歩いているので、スマホや日暮れ後の照明の充電もザックに取り付けたソーラー発電で全てを賄います。
犬も自分の餌箱や雨具、そして少しのご飯やおやつを背負い歩きます。
住宅地を少し進むと、再び立派な遍路石です。
これはちょっと特殊な遍路石でしたね。
「遍んろ道 八幡へ十三丁 右 和霊大明神 三十丁 奈良原本社 五里半 弘化四丁未春」
と、神社の案内メインの遍路石で、その距離も20km以上離れたものや、”弘化四丁”とは4年を意味するのだろうか?(弘化4年 干支 丁羊)
教養がないので全く分かりません。
その先で国道を横切ると昔ながらの細い路地を歩きます。
その先に老人ホームがあり、その横には遍路の墓がずらりとあります。
過去にはそれぞれの遍路に出る複雑な理由や、その遍路達の様々な問題を地域が抱えることも大いにあったそうです。
だから止む無く遍路の出入りを厳しく制限した土地もあったとか。
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遍路経験者には是非とも読んで欲しいこちらの本を見てから、遍路墓1つにも色んな思いや想像が膨らみ、古のその風景を思い浮かべることが増えました。
今でこそ、とても平和で安全に旅が出来る時代となり、我々の野宿スタイルですら恵まれていると大いに感じています。
遍路の墓を通り過ぎると堤防に登り、そこにもまた遍路石と幾つかの舟形地蔵があります。
何故かこの遍路石の指さしは黒く塗られていますね…。
今は堤防沿いに500メートルほど歩き橋を渡りますが、以前はここに板を掛けて川を渡っていたようです。
確かに対岸を見ると、遍路石が建っているのが見えました。
500メートル進み、橋を渡ってから先ほどの遍路石を振り返りました。
さっきの指さしが黒く塗られた遍路石は写真左手に写る青白い三角屋根の建物の少し先で、狭い川幅に以前は板を掛けて渡っていた姿が想像できます。
俺は視力が2しかないのですが、ここからも対岸の背の高い遍路石が確認できます。
本当なら歩いて確認に行きたいところですが、今日も目指すは風呂一択で、それを阻害する1人と2匹を連れてますので諦めます。
往復1kmって歩くと結構長くて15分は見てるんですよ。
しかも堤防は犬連れにとって”くんくん”と”しぃー”の宝庫であり危険です。
わざわざ四国まで犬の散歩に来てるわけじゃないので、本当に付き合ってられません。(ふろふろふろふろふろふろ)
橋を渡った先にスーパーがあるので、そこで昼食の買い物をします。
今から暫く山に入り、次の店まで距離もあるので昼食は山の中になるでしょう。
その為に便利なカップ麺と必要な水を2ℓほど購入し、飲み水などに注ぎなおし、俺はコーラとおやつをザックに忍ばせて57番札所を目指します。
こちら側も綺麗な堤防を、しかも車道とは別の歩きやすい道を歩きます。
車道を横切り、遍路石のあるあぜ道へ。
と、言いたいところですが、お気に入りだったあぜ道は数年前にコンクリートで塗り固められ、道幅も大きくなっています。
ここは本当にいい遍路道でしたが、残念…、とは言え地域の人たちの生活の場なのでしょうがないですね。
車で来るときは「歩いて来やん」と同乗者を下ろし遍路を感じさせる道でもありました。
そこから少し進めば57番札所栄福寺に到着です。
今となってはいくつか建物が増えたり、駐車場が拡張されたりしましたが、俺の好きな雰囲気のお寺の1つであります。
あだちの好きな雰囲気のお寺(赤は”特に”で、あくまで”雰囲気”)
・4番大日時
・14番常楽寺
・15番国分寺
・22番平等寺
・27番神峯寺
・32番禅師峰寺
・46番浄瑠璃寺
・54番延命寺
・57番栄福寺
・71番弥谷寺
・81番白峰寺
・88番大窪寺