遍路宿の苦い思い出 区切り遍路38日目⑦からの続きです。
2022年2月26日、久万高原町から三坂峠を下り46番札所浄瑠璃寺まで来ました。
2日前にウクライナへロシアが侵攻を初め、この時代に侵略戦争が起きてしまったことや、これから先にどんなことが起きるのか、
この時点では軍事力が圧倒しているロシア軍があっという間にウクライナを破壊すると思っていたし、世界の他の国は助けるのか?とか、何から何まで分からない世界情勢に、心ここにあらずな旅をしていました。
この日からちょうど1ヶ月経った今日、あの時は予想していなかった戦争の状況や自分の持病の一進一退な状態に、未だ遍路の記録も2日目がやっと終わろうかという状態です。
ブログの環境も変わり、スマホからパソコン作業へと変わったことに未だ慣れず、ますます気が重い中、心ここにあらずな旅と、心ここにあらずな文章をどうにか最小限に収めようとパソコンと向かい合います。
四国八十八ヵ所の中でも大好きなお寺である46番札所浄瑠璃寺。
九州寄りの愛媛県松山市にあるこのお寺は、まだ遍路初心者だったかなり初期に訪れたお寺です。
右も左もわからなく飛び込んだ四国八十八ヵ所で一番最初に行ったお寺は43番札所ですが、その時は1日で挫折して宮崎に逃げ帰り、再挑戦して車で打ち始めたのは高知県の31番札所竹林寺からでした。
経験を積んだ今考えると本当に不思議な行動ですが、四国の右も左も分からない九州の人からすると、九州の反対側の徳島1番札所から打ち始めることは非常に想像しにくく、どんなスタートを切るかに頭を悩ませた問題でありました。
15年ほど前の話ですので、もちろんナビも珍しく地図と睨めっこ、ETCも100km未満割引とか出始めの頃、しかも東九州道は未開通で四国までが遠く、一番大変だったのは今のようにネットが発達しておらず何するにも情報が不足してたことでしょう。
今となってはいい思い出だし、苦労の分だけ現代の四国八十八ヵ所巡りよりはずっとずっと中身の濃い旅だったと思います。
あの頃は寺の何を見るのも珍しかったし、ひと時でも宮崎の地から離れられるのが救いでした。
浄瑠璃寺のいろんなものを見ると、本当に沢山のことを思い出します。
後に牢屋に入り、精神病院まで行き着くわけですから、苦しい思い出ばかりが多く、だからこそ四国八十八ヵ所に無宗教の俺がどれ程救われていたのかを感じます。
あれから何度も車で四国八十八ヵ所巡りを重ね、自転車、バイク、そして遂に歩きへと、四国八十八ヵ所巡りから遍路へと、俺の旅は変わっていったわけです。
今回の旅で長いこと見かけた錦札。
本堂、大師堂の納め札入れの上に置かれた錦札と5円玉。
色んな形で四国を旅してきましたが、俺の10周はあろうかと言う乗り物を使った四国八十八ヵ所巡りは、たった1度の徒歩による遍路に粉々に打ち砕かれました。
それは古来より徒歩が遍路であったり、空海の追体験と言う視点では勿論ですが、そもそも通っている道が全く違うわけです。
88個のお寺に行くことは共通であっても、その道中は全く違うもの、ある意味2つの共通点はそれしかないのです。
目的もまた、88個が大切なのか、そこに行くまでの過程が大切なのか、一緒にしようにも一緒に出来るはずもない、自分の経験から俺は遍路と八十八ヵ所巡りを別のものと考えるようになりました。
それ以来、派手な札にも、輪袈裟につけられた主張にも、白い服、朱の杖、濃い色の笠にも全く価値を感じなくなり、遍路の為の装備や機能を重視するようになった。
俺はまだ「色」や「空」を語るには気付きが少なすぎるけど、「色」や「空」から離れていったものは何となくわかります。
何故、四国の地を旅するのか。
目的は人それぞれと言えばそれまでのこと。
しかし、経験をもとに言えば「経験して欲しい」と思います。
たった1回の遍路が四国八十八ヵ所巡りを、今まで生きてきた世界観をぶち壊します。
スローで流れる景色に見えるものはとても多く、古から遍路を導いてくれていたものに沢山出会う。
黄色い地図と石の道標を辿る旅と、青い看板と画面から出る音声道案内の旅。
考えて選ぶ道と、セットされたものに従う旅。
1日何度も地図から距離を計算し想像する旅と、ボタン一つで距離も時間も道順も一瞬の旅。
「レールの敷かれた人生は嫌だ!」と言いながら、それに依存して責任放棄していた俺の人生。
失敗から得たものは、自分で考えて選択するという責任だった。
車やナビと言う依存を手放し、考え、選択しながらながら四国を歩く。
同じ1200kmでも、果たして車と徒歩ではどれだけの選択肢の数が違うのだろう?
とても同じものだとは思えません。
夕方になり、やっと松山の市街が見えてきました。
気分はうんざり…、やはり歩くなら人や車の少ない土の道がいい。
47番札所八坂寺に到着です。
札所間は約1kmと言う短距離。
車だと、乗ったと思ったらもう着いて、また読経して、また去ります。
八坂寺には猫が多いので、猫を敵視している2匹を連れてる身としては気が張る場所です。
境内に入らずに外から読経しようかとも思いましたが、恐る恐る入った境内に猫の姿は無く、安全にお参りすることが出来ました。
そこからまた1kmほど進めば別格9番札所の文殊院です。
衛門三郎の邸宅跡に建つと言われるお寺で、諸説あるうちの1つである遍路発祥の地でもあります。
詳しくは触れませんが、托鉢に来た空海に乱暴に振舞ったことによる後悔の出来事に、空海を追って旅に出た伝説の地。
何度か書いていますが、俺の尊敬する人物の一人が衛門三郎であり、己の過ちに気づいた力に何より惹き付けられます。
これが出来ない人が圧倒的に多い世の中で、衛門三郎の存在は本当に考えさせられるものがあります。
久万高原町から続いたこの旅は、本当に沢山の新しい時代の遍路石を見かけました。
寺も多い地域になるので、歩いてて楽しい道ではないでしょうか?
先ほどの文殊院から2kmほど歩いたところに、今度は番外札所の札始大師堂があります。
この前旅した篠山にある札掛は、篠山に参ることが出来ない人が札を掛けたことにより札掛という地名になりましたが、この札始もまたちゃんとした理由があります。
先ほどの衛門三郎の話を思い出せば分かりやすいですが、空海に対して行った乱暴を謝りたくて後を追った衛門三郎がまず一番最初に訪れたのがこの札始大師堂でした。
衛門三郎はこの地に空海を追って自分が来たことを知らせるために札を残したと言われ、それが納札のルーツとも言われております。
つまりは、衛門三郎が札を打ち始めた最初の場所であり、札始となったようです。
さて、衛門三郎伝説は51番石手寺まで続くわけですが、そこに着くのは明日となります。
今日はもう17時を過ぎで日も傾いて来ました。
お山さんの予定では46番付近で野宿だったのですが、気が付けばもう少しで48番札所までというとこに来ています。(付近に野宿ポイントも見つけていない)
本来なら、46番札所からは別のルートを取り、2ヶ所の大師堂を見てみたかったのですが、それは今後に残しておくということにして、
17時30分過ぎ、目標としていた温泉に到着。
今日はこの近くの河原でテントを張ろうかと予定していましたが、
ちょっと近くに空き地を見つけたので、そこをお借りすることにしました。
真っ暗と逆光で何も見えませんが、手前にテントの形がうっすらと見えると思います。
寒いなか、いつも通り温泉に行く方と、テントに残り犬と夕食を作る係に分かれ、身体を休める支度を始めます。
冒頭にも触れましたが、1日中戦争のショックが取れず暇さえあればスマホで状況を調べていました。
この日は素晴らしい温泉にゆっくり浸かり、身体を温め清潔にすることが出来ましたが、やはり睡眠は取れず辛い夜となりました。
明日は大半を松山の大都会を歩き、恐らく風呂は入れない辛い日となります。
とりあえず、おやすみなさい。
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今回のブログで納札や遍路のルーツに触れましたが、諸説あるうちの1つで、先日読み終えた↑にある本には本当に詳しく現実的なことが書かれておりました。
非常に読みごたえがあり、遍路経験者にはお勧めの本です。
きっと多くのことを打ち砕かれ、違った角度から遍路を知ることが出来ると思います。
この本は遍路の本の中で一番お勧めです。