2023年2月、強引に決行した歩き遍路がありました。
本来ならば2022年11月末から12月の初めにかけて6日間歩く予定が、出発前の用事を済ませて自宅に戻る途中の、
ビーニャ「頭痛がする…」
によって出発1時間前に様子見となった区切り遍路は、2日後にコロナウィルス感染が判明して、その2日後に俺にも感染…。
その後2人して約半月寝たきりの状態となり、不完全燃焼のまま区切り遍路を見送ることになりました。
その煮え切らない気持を晴らすかのように、3月末から4月の初めにかけて遍路の予定があるというのに2月まで強引に休みを取ってきたビーニャさん。
昼過ぎまでの仕事を終えて九州を北上しフェリーで四国に上陸した後は、最近の我が家の拠点となっている内子のキャンプ場でテント泊初日を迎えます。
それにしても区切り遍路の毎回となるこの移動の大変さと出費の凄さ。
自宅のある宮崎県都城市から高速道路を3時間半ぶっ飛ばし、大分県にある佐賀関港からフェリーで70分かけてやっと愛媛県に上陸。
この時点で交通費もドッカーン!で時間もドッカーン!
しかし、そこから長い愛媛県の佐田岬半島を突っ走り八幡浜市、大洲市、そしてやっと内子町と言った死に物狂いの大移動を毎回の如く行っております。
結論から言うと、愛媛県西条市から四国中央市までの2日間となった今回の区切り遍路でしたが、大変歴史を感じた濃い道のりとなりました。
実は俺が四国を遍路するうえで一番嫌いとしているのがここの道だったのですが、見る目が変わった、そんな旅でありました。
さて参りましょうかと、ここから2日間続く道の殆どがこんな細く交通量が多い歩きにくいアスファルト道だという事実にウンザリしながら、おまけに明日は雨…、天気予報を見れば見るほど悪化していく、そんな状況で車を近くの駅に停めさせて頂き歩き出す。
駐車場にいたじいちゃん「おお~、随分と遠くから来たんやねぇ」
「あっ、どうも~」と挨拶をして車を停めても大丈夫そうか確認をすると「大丈夫」とのこと。
駅から張り切る犬2匹と四国病のあの人を引き連れて、まずは約3km先にある64番札所前神寺を目指します。
狭い旧道を歩き、前神寺の少し手前にある石鎚神社まで来ました。
ここが神仏分離前の64番札所であるので是非とも立ち寄ってみたいのですが、迷っているうちに気が付いたら通り過ぎていました。
石鎚神社とは、ここと石鎚山の山頂にある頂上社、中腹の成就社、土小屋遥拝殿の総称ですが、土小屋を除いた他は行ったことがあります。
因みに今回の旅は2日間しか歩けない為、60番札所横峰寺の星ヶ森経由で石鎚山参拝も選択肢の一つとなっておりましたが、山頂付近は流石に雪で大変そうなのでやめることにしました。
いつかは月山神社、篠山神社、石鎚山という3ヶ所を歩いて制覇したいと思っております。
さて、64番札所前神寺に着きました。
それにしてもお空がいい天気ですね。
ずっと俺はボヤいてるのです。
例えば明日、山登りをしようと計画があったとして、天気が雨になれば「中止しよう」となるのが普通と思うわけです。
しかしですね、遍路ともなると何故か、たった2日しか歩かないのに明日が雨と分かっていても「歩こう」となる訳なんですよ。
通し打ちとか長旅の雨なら理解できますが、何でですか?
俺はね、宮崎県から愛媛県まで1日で移動できる文明を持っているのです。
だったら雨を避けて別の土地に行くことだって出来るんですよ!
因みに「雨だったら絶対に歩かない」と念を押していた俺の目的地は長崎県の雲仙でした。
ああ、そうでした、失礼しました。
俺の遍路をする上での設定は、不便を楽しみ、出来るだけ“いにしえ”に沿った霊場巡りをすることでしたね。
はい、喜んで雨に打たれて歩いてやりましょう。
それにしても毎回思うんです。
前神寺はなんでこんなに境内が広いんだよ…、少しでも歩かせないでよ…と、寺より道中を重要視している俺に寺の中を歩き回る時間は御座いません。
因みに四国霊場に足を踏み入れてから15年を過ぎる私の記憶が正しければ、こちらにいらっしゃる不動明王さんは昔こんな色をしておられず、ちゃんと石の色をされておりました。
今となっては随分と愛媛らしい色になっておられ、1円玉を投げて貼り付いたらラッキーな存在になっておりますが、すぐ裏には石鎚山を筆頭とする四国山脈、お隣には銅山で有名な別子銅山もあり、その鉱泉か何かの影響でミカンになられたのでしょうか?
四国霊場の中でもカッコいい寺にランクインする前神寺ですが、本堂もまたカッコよくなったのは最近の話であり、以前は本堂の両サイドに延びる回廊と、石畳の参道も今の様には無く、広場にポツンと寂しい本堂があるだけのお寺でした。
こうして遷り変る四国霊場を見てきておりますが、1200年の歴史のほんの一部でしかありません。
俺が恋焦がれて堪らない本来の四国霊場は知りようのない長い歴史の底にあり、今となっては所詮数百年前の情報しか得られないのです。
1000年前の遍路とか経験してみたいな…。
昔を思い出しながら本堂の前で読経の準備をしていると、
ビーニャ「私さぁ…、ここに来ると毎回気になることがあるんだよねぇ…」
俺「黙れ!いいからさっさと読経して、さっさと歩け」
ビーニャ「この“神”って言う字がさぁ…、いつも歪んでるのが気になるんだけど、どうしてなのだろう?」
言われてみれば確かにそうで、俺は今まで全く気が付かなかった。
例えば88番札所大窪寺の薬師如来の“薬”の文字が欠けているのは“結願寺ではあるが、ここで完成ではない”的な謂れがあるが、ここもそんな理由があるのだろうか?
必死に前神寺の由来を思い出し、適当に何かこじつけて、さっさと次に行こうと考えた。
そうだ、情報化社会でコピペの嵐な今の時代に適当に噂を作って、遍路の歴史に何か伝説を残そう。
えっとね、さっきも書いたことだけど、ここの前神寺は神仏分離の影響を受けて明治11年(1878)にこの場所に移動して再興されたんだ。
でも、その頃は“神”の文字を使うことが許されなくて前神寺ではなくて“前上寺”と名乗っていたんだよ。
それが時代も変わり前上寺から前神寺に変わる時、名前を変えることに大反対した住職が居たらしい。
その住職の霊が夜な夜な現れて“神”の字を“上”の字に戻そうとしているんだ。
夜ここに来ると“神”の字がミミズみたいにウネウネしてるらしいぜー(大嘘)。
ビーニャ「でも、よく見ると“前”の字も歪んでるね」
俺「確かに、全体的に歪んでる」
小さなころから洋服のセンスなどバランスを叩き込まれたビーニャさんは、こうしたことにとても敏感で、逆に俺は何も気づかない。
ビーニャ「あっ、あの家紋、何だっけ?織田…、豊臣…、」
俺「あら、徳川の家紋や」
西条藩の殿様は松平家、つまり徳川ととても縁が深い殿様なので、ここにもそうした影響が見て取れますね。
今年の大河ドラマの主人公である徳川家康の元の名が松平元康なのです。
さて、次へ参りましょう。
この旅では次の65番札所まで辿り着かないので、ここが唯一の88ヶ所霊場となり、別格札所延命寺や、他、番外札所を目指して出来るだけ正しい遍路道を模索しながら進みます。
その前に初めての休憩を境内で取っていると、コロナに世界も慣れてきたのかお遍路さんの姿も結構見かけるようになり、歩き野宿の女性の姿もここで見かけました。