蔵王・お釜の大迫力と神の意志 新潟・東北車中泊旅3日目⑤からの続きです。
昨晩は標高1,800mの山の上にある駐車場で車が揺れる程の強風のなかでの車中泊でした。
1m先も見えないほどの凄い速さで流れる雲の中、車中泊は我が家と端っこにあった軽自動車の1台のみ。
一夜明けても雲の中。
本日、蔵王お釜の観光を控えていた人たちは残念ながら全く見ることは出来なかったでしょう。
昨日夕方過ぎてから必死に走り、ギリギリ見れたことを幸運に思います。
さて、今日はいよいよ山形県の北にある秋田県を目指して走ります。
本来なら朝のお釜を散歩したかったですが、この天気ですので諦めて再び蔵王を下り、昨日通ったばかりの山形市への国道を走ります。
移動距離の多い旅ですのでガソリン代は現実逃避したい問題の1つ。
付近のガソリン価格を調べながら給油し、やっぱり素通りすることが出来なかった長谷堂城へ向かいました。
車窓から見える長谷堂城跡。
100名城にも、続100名城にも含まれておりませんが歴史的な場所であり、漫画”花の慶次”ファンなら聞いたことがある城の名前でしょう。
関ヶ原の戦いと同じ1600年9月15日に長谷堂城は上杉家によって攻められ開戦となりましたが、長引くと思われた関ヶ原の戦いはたった半日で終わることになります。
岐阜県関ヶ原での西軍敗北の知らせが山形の長谷堂城に届くのはその15日後の9月30日。
その知らせにより上杉軍は撤退を始めますが、ここから伊達、最上連合軍の追撃が始まります。
その頃既に石田三成や安国寺恵瓊など西軍武将の処刑が京都で行われ、後に上杉をこの地に釘付けにした最上家は24万石から57万石への大出世となり、逆に120万石の大大名だった上杉家は30万石に減らされ米沢へ移されることになったのです。
24万石とは言え、120万石の上杉家と対峙した最上家にとって関ヶ原の戦いが短期間で終わったのは救いだったでしょう。
上杉家によって次々と城を落とされながらも、本拠地である山形城の目の前にあった長谷堂城で北の関ヶ原も終わりを迎えたのでした。
長谷堂城を後にして、通勤ラッシュ中の山形市の横をかすめながら次なる目的地である続100名城鶴ヶ岡城を目指します。
残念ながらこの日は雨でしたが、鶴ヶ岡城のある山形県鶴岡市は日本海側にあり、再び日本海に戻れることを嬉しく感じながら車を走らせます。
その山深い長距離移動の途中で開店直前の道の駅にしかわに立ち寄りました。
同じ敷地内に温泉のある車中泊には理想的な道の駅ですね。
駐車場で目を引いたのは隣にあるお寺の薬師堂の看板でした。
勿論御参りを済ませ、その後店内を見て回り鶴岡市を目指しました。
鶴岡市までの山越えルートはさぞかし難所だったことでしょう。
月山(がっさん)と言う聞き覚えのある地名に興味を惹かれながらも、我々はかなり予定に追われており観光に時間を取れませんでした。
そして辿り着いた鶴ヶ岡城は街中にある、いつものパターンのお城でした。
御角櫓跡程度しか見どころは感じられませんでしたね。
雨の中、犬の散歩です。
内堀から先ほどの角櫓を写してさようなら。
駐車場の目の前では道路工事の真っ最中でした。
次へ向かおうと犬を車に乗せていると、トイレ休憩なのか警備員さんがずっとこっちをニコニコしながら歩いて見ています。
警備員「随分遠くから来たんだねぇ!」
「丸2日走ってきましたよ!」と、同じ日本に住んでいながら本来会うはず無かった人との一期一会を感じます。
東北の地で我が家の車のナンバーをパッと見ると宮崎でしょうか?宮城に見えるでしょうか?
旅をしていると本当に不思議に感じることがあります。
何処まで遠くに走っても家があり日本人を見かけるが、1回も口を聞くことの無い人ばかり。
狭い地元の人間関係に悩むことが本当に小さいことだと感じさせられます。
まだ離婚のショックが癒えなかった7年前の旅。
日本を旅して沢山の人を見て歩いて「たった一人の人に囚われていること」に疑問を感じれた貴重な経験でした。
新品価格 |
お城巡りを始めるきっかけとなったこの本ですが、2年前の東北旅の時の会津若松市で購入したことがきっかけでした。
日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ) 新品価格 |
我が家は100名城と100名城の2冊を持っておりますが、今はまとめて1冊になっている物もあるようです。
旅のお供に是非、歴史を知れば旅がグッと濃いものになります。