日本海から内陸部の米沢城へ 新潟・東北車中泊旅3日目③からの続きです。
念願の山形県入りを果たし、県南にある米沢城を観光した我々は、いよいよ山形市を目指すことになりました。
慣れない土地の市街地はあまり運転したいものではありませんが、どんな街なのか県庁所在地や、耳にする地名くらいは見て回りたいですね。
それに山形市には100名城の山形城もあります。
米沢城から山形市へは車で約80分程だったと思いますが、淡々と国道を走り北上した記憶しかなく風景を思い出すことが出来ず残念です。
ただ、この時は既に15時を過ぎており、今日の車中泊ポイントに悩んでいました。
この時間から市街地へ向かうことは極力避けているのですが、それだけ市街地での車中泊ポイント探しは難しいのであります。
それもあって今日中に山形城まで向かうのか話し合いながら進んでおりましたが、答えが出ないままふらりふらりと走り続けてしまったのでした。
途中、観光予定地の蔵王の麓を通り過ぎます。
この付近にもなると白石や仙台の文字も見え始め、宮城県が恋しくなります。
更に北上を続けていると突然”長谷堂城”の看板が目に入りました。
歴史好きなら耳にしたことがあるであろうこのお城がここにあったことに驚き、立ち寄るか迷っておりましたが時間的に諦めることを決定します。
そして辿り着いた山形城、またの名を霞城(かじょう)と言うようです。
最上義光のカッコいい像がお出迎えですが、俺はこの人を知りません。
最上と言えば”よしあき”しか知らないのですが、改めて調べてみたところ、最上義光と書いて”よしあき”と言うようです。
そうですか、あなたが上杉と戦ったあの人ですか、こんにちわ。
山形城は、いかにも市街地にありそうなお城そのままで面白くありそうにございません整ってますね。
静岡の駿府城を思い出すかのような広い敷地と、今まさに発掘作業が行われているそんな城内であります。
改めて違う角度から最上義光さん、こんにちわ。
最上さんに続いて山形の民も右下で突撃されておりますね。
それにしても、馬に跨る武将ほど似合うものはありません。
山形城で目立ったものと言えば東大手門でしょうか。
堀の横、つまりはこの橋の下を電車が通っており、電車が好きなお山さんは喜んでました。
電車を見て何が楽しいのでしょうかね。
再び城内に戻り、本丸の土塁などを見て歩きます。
元々24万石のお城が、北の関ケ原で上杉家を抑えた功績で57万石まで出世したとても大きなお城です。
24万石でも大きいのに57万石とはビックリだけど、この話ピンと来る方はきっと少ないでしょう。
その加増になった北の関ケ原で戦った上杉家は120万石とも言われ、24万石で5倍の勢力と戦ったわけですから認められて当然なのかもしれません。
石…米の量を表す単位。武士の給料は石高で表され、1石=成人1人が1年に食べる米の量とされています。つまりは、それだけの領地の広さや米の価値=財力とも考えられ、それだけ兵を雇えることにも繋がります。
城内の空堀の中に本丸がありました。
渡ってみましょう、と言いたいところですが、橋を渡れるのは16時までとなっており、5分遅れの我々は入ることは出来ませんでした。
中を見る限りじゃ、何もありませんでしたよ。
本丸の周りを回って帰ろうとしていると、歴代藩主の年表がありました。
好きな時代は限られておりますので余り興味なくチラッと見たところ、目に飛び込んできた保科正之の文字。
あら、こんにちわ。
まさかこんな所で見かけるとは思わなかったのですが、山形藩主だったのですね。
随分と歴史も忘れてしまったのですが、とても優秀で人格者だった記憶があり、2代目将軍徳川秀忠の妾(めかけ)の子として生まれ残念ながら本筋には入れなかったのですが、3代将軍家光との逸話はとても大好きなお話の1つでございます。
保科正之の話をお山さんに聞かせながら本丸を歩き、ふと気になった所で足を止めた。
空堀の中に石垣の残骸のようなものが見える。
「何だろう?」とよく見ると、
「なるほど」と、石垣が崩れた後なのだろうと、石垣の中央部に残る算木積みのような痕跡を見つけて納得した。
一度崩れた石垣を増築して積み直したのだろう。
江戸時代の資料に”御櫓崩”と表記されているようなので、櫓が石垣ごと崩れたのかもしれません。
石垣はこういう時代の流れや、修復の跡が見られるのもまた面白い。
さて、そうこうしていたら時刻は17時になろうとしております。
今から山形市内は渋滞に入るでしょうし、そうなる前に早く抜け出したいところであります。
とは言え、今日は何処で寝ましょうか?
まだ決まっておりませんでした。